土方歳三
商売を点々とした「バラガキ」 |
天保6(1835)年5月5日。多摩群桑名村石田の農家に, |
土方歳三 |
●石田散薬は河童明神のおつげ?● そのあと,土方の実家で,製造販売していた「石田散薬」という薬の行商にでる。 この石だ散薬はけっこう効果があったらしい。 土方は「石田散薬」を新撰組の隊ごとに常備させていたという。 打ち身,捻挫,切り傷に効く。新撰組には怪我や病気はつきものだからだ。 石田散薬は,土方家の先祖が河童明神のお告げによって作ったという, 由緒ただしい薬だ。お酒と飲まないと効果がないらしい。 原料は,近く浅川の川原に生える牛革草という草を,土用の丑の日に刈り取って, 黒焼きにする。その草を刈り取ることが,土方家の年中行事になっていて, 村中の人が手伝わされたのだ。 その音頭取りを土方がやっていた。土方は,刈り取り, 運搬・整理・乾草と 担当を分け,機能的に働かせていた。 維新後も,飲まれていたというからファンはいたんだろう。 しかし,土方は行商よりも剣術のほうに興味があったのだ。 甲府,伊勢原,川越と行商に歩いたが,道場があると他流試合をして歩いた。 |
歳三の愛刀・和泉守兼定 |
近藤勇の剣は豪胆で,迫力で相手を圧倒していった。 沖田総司の剣は直線的で,俗に「三段突き」といわれる。 土方歳三の剣は自由闊達な剣だった。 「型にハマった道場剣法では,実践に役立たない」と 考えていた。しかも,ある時期から竹刀を使わず, 道場でも真剣を使っていたというから凄い。 試衛館に道場破りが来たときのこと。それほど強そうな 相手ではないのに,剣の達人の土方は, 他の道場に助っ人を頼みにいったのだ。 助っ人に,自分のかわりに試合をしてもらい, 追い返してもらった。土方なら簡単に追い返せたのに どうして試合に出なかったのか。 実は土方の剣は「殺人の剣」だ。 道場の試合で,無益な怪我人を出したくなかったのだと いう。いかにも自由自在だ。 |
●脇差も長い● 土方の剣は,「和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)」。 2尺8寸。鍔には梅の花が1輪。鞘はエンジ色。 そこに,鳳凰と牡丹が描かれている。 脇差は,堀川国広で1尺9寸。 かなり大きい。件は,函館戦争でお金と写真と一緒に届けられている。 鉄之助に託し,東京・日野の実家に届けられている。 |
刃渡り 2尺4寸5分(約74cm) 刀身 合金 別焼き刃仕様 鞘 朴木 茶石目鞘 柄 綿糸巻き本鮫柄 |
試衛館の四天王 |
●行商はそっちのけで,剣術修行● 葛を背負って,薬を売る。 土方歳三は,行商は熱心ではなく,道場を見かけると 飛び込む。 とにかく勝負をしてもらい,腕を磨いていった。 実は奉公先をクビになってから,実家にあまり帰っていない。姉の嫁ぎ先の佐藤彦五郎の家は剣術の道場を もっているからだ。 しかも,その道場では 試衛館の若先生に出稽古にきてもらっているのだ。 試衛館の若先生とは,近藤勇である。 奉公先をクビになった土方が,彦五郎の家にきていて,近藤と運命的な出会いをしたのだった。 年齢は近藤がひとつ上という。 25歳で,試衛館に入門する。とにかく,行商そっちのけで,佐藤家に居候しっぱなしだから,メキメキ強くなる。 佐藤家は姉の嫁ぎ先だから,迷惑な話だ。 土方歳三といえば,面のうしろで,真紅の紐を長くたらし,朱塗りの皮胴をつけていた。 オシャレな防具だ。しかも,道場によくある,型にはまった竹刀剣法ではない。 もともと天然理心流は実践的な総合格闘技である。土方の剣法のセンスはここで磨かれたのだ。 ●剣の達人● 土方歳三は,剣の天才であり,達人だ。ところがまわりの人はそれほど認めていない。 剣というと,沖田総司を1番とする。または,他流ではあるが,永倉新八だ。 試衛館では,師範代はあくまで沖田である。 じつは土方は,免許皆伝を取っていない。 そんなものは,いらないのだった。免許皆伝は10年はかかる。 沖田は若くして,免許皆伝を受けている。 |
顔は一流。度胸は超一流。 |
(新撰組好きで)100人中70人は知ってるであろう、近藤勇という男は拳を口の中に出し入れできたという話は 有名である。顔だけでも、かなり迫力のある顔なのだろう。いわゆる、「おしだし」の強さがあったのだ。 |
|
さて、本当に剣の実力があったのだろうか?実はというと、 自分が免許を与えた、門弟(新撰組のメンバー)の方が強かったといわれる。 しかし、なんといっても 16歳で天然理心流に入門して、28歳で免許をうけて、 4代目の当主となった。スピード出世である。 誰も近藤勇の前に出ると、手足がすくんでしまう。 剣は、「下晴眼の構え」である。体を少し反り気味にして、腹をつきだす。剣が相手の篭手に入ると、 竹刀をおとしたという。 |
|
「天然理心流」は総合格闘技だった。ほかの道場の「竹刀の剣術」とは違う。 近藤勇が他流試合をしたときのことだった。 相手は、講武所の名人・本梅縫之助だ。本梅の竹刀は、勇の竹刀をからめて、宙に 飛ばしてしまった。すると勇は後ろに2、3歩下がり、すぐに柔術の構えをとった。 ほかの流派なら「参った!」というところだろう。 勇の迫力に、本梅が一瞬 ひるんだ。「お手並み拝見した」と本梅は一例した。 あとで、本梅は「あの近藤なるものの姿勢を見たか。最後まで、勝負を諦めない態度は 見習うべきだ。」といったという。(『知れば知るほど』より) |
役者のようないい男,天下国家のため結婚を取りやめる |
いまでも,写真が残る。(上) 近藤は豪胆だが,土方はキリッとしていていい男だ。 身長は5尺5寸(165cm)だが 当時とすればスラッとしている。 試衛館時代には,色白で,猫背で,役者のようだといわれていた。 17歳の頃にもご存知のとおり女性と関係している。かなりモテたのだろう。 |
||
●恋文の山● 京都から,土方歳三は試衛館の門弟に,小包を送ったことがある。 そこには,「いいものをあげるよ」と書いてある。門弟は心をときめかせて,小包を開けると 中には京都や大阪の芸者や遊女から送ってきた,恋文やプレゼントが入っていたのだ。 祇園に数人,北野,新地にかなりの数の女性がいたという。名前もわかっている者もいる。 |
||
●天下のため,婚約を破棄する● 上洛前の土方の許婚(いいなずけ)は「お琴」という。三味線ひきの娘だ。 内藤新宿に近い場所に住んでいた。評判の美人で, 長唄の腕も良い。土方の兄は,お琴の店から三味線をよく買っていた。 家族ぐるみの付き合いで,結婚というところまでいく。 しかし土方は乗り気じゃない。実は,もう試衛館では天下国家の話が盛り上がっていたのだ。 自分ばかり結婚している場合じゃないと,土方はお琴に別れを告げた。 お琴も土方の気持ちが分かり,ついに結婚の日は来なかったのだ。 上洛のあと,一度故郷に帰るときがあり,そのとき会っている。 その後は二度と会うことはなかった。 |
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||