土方歳三

商売を点々とした「バラガキ」

天保6(1835)年5月5日多摩群桑名村石田の農家に,
元気な男の子が生まれる。6人兄弟の4男である歳三である。

自由,快活,野性味,手のつけられない暴れん坊を
バラガキ」という。土方歳三はバラガキだったのだ。
11歳のとき,上野の伊藤松坂屋に奉公に出る。
ところが番頭と喧嘩して,実家に帰っている。
17歳でもう1度,小伝馬町の呉服屋(質屋)に奉公するが,
店で働いている女性と関係ができ,追い出される。
凄い少年だったという。


土方歳三
●石田散薬は河童明神のおつげ?●
そのあと,土方の実家で,製造販売していた「
石田散薬」という薬の行商にでる。
この石だ散薬はけっこう効果があったらしい。
土方は「石田散薬」を新撰組の隊ごとに常備させていたという。
打ち身,捻挫,切り傷に効く。新撰組には怪我や病気はつきものだからだ。

石田散薬は,土方家の先祖が
河童明神のお告げによって作ったという,
由緒ただしい薬だ。
お酒と飲まないと効果がないらしい。

原料は,近く浅川の川原に生える牛革草という草を,土用の丑の日に刈り取って,
黒焼きにする。その草を刈り取ることが,土方家の年中行事になっていて,
村中の人が手伝わされたのだ。

その音頭取りを土方がやっていた。土方は,刈り取り,
運搬・整理・乾草と 担当を分け,機能的に働かせていた。
維新後も,飲まれていたというからファンはいたんだろう。

しかし,土方は行商よりも剣術のほうに興味があったのだ。
甲府,伊勢原,川越と行商に歩いたが,道場があると他流試合をして歩いた。
歳三の愛刀・和泉守兼定
近藤勇の剣は豪胆で,迫力で相手を圧倒していった。
沖田総司の剣は直線的で,俗に「三段突き」といわれる。
土方歳三の剣は
自由闊達な剣だった。
「型にハマった道場剣法では,実践に役立たない」と
考えていた。しかも,ある時期から竹
刀を使わず,
道場でも真剣を使っていた
というから凄い。

試衛館に道場破りが来たときのこと。それほど強そうな
相手ではないのに,剣の達人の土方は,
他の道場に助っ人を頼みにいったのだ。

助っ人に,自分のかわりに試合をしてもらい,
追い返してもらった。土方なら簡単に追い返せたのに
どうして試合に出なかったのか。
実は土方の剣は「殺人の剣」だ。
道場の試合で,無益な怪我人を出したくなかったのだと
いう。いかにも自由自在だ。
●脇差も長い●
土方の剣は,「
和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)」。
2尺8寸。鍔には梅の花が1輪。鞘はエンジ色。
そこに,鳳凰と牡丹が描かれている。
脇差は,
堀川国広1尺9寸
かなり大きい。件は,函館戦争でお金と写真と一緒に届けられている。
鉄之助に託し,東京・日野の実家に届けられている。
刃渡り 2尺4寸5分(約74cm)  刀身 合金 別焼き刃仕様   鞘 朴木 茶石目鞘    柄 綿糸巻き本鮫柄
試衛館の四天王
●行商はそっちのけで,剣術修行●
葛を背負って,薬を売る。 土方歳三は,行商は熱心ではなく,道場を見かけると 飛び込む。
とにかく勝負をしてもらい,腕を磨いていった。
実は奉公先をクビになってから,実家にあまり帰っていない。
姉の嫁ぎ先の佐藤彦五郎の家は剣術の道場を
もっているからだ。 しかも,その道場では
試衛館の若先生に出稽古にきてもらっているのだ。
試衛館の若先生とは,近藤勇である。

奉公先をクビになった土方が,彦五郎の家にきていて,近藤と運命的な出会いをしたのだった。
年齢は近藤がひとつ上という。


25歳で,試衛館に入門する。とにかく,行商そっちのけで,佐藤家に居候しっぱなしだから,メキメキ強くなる。
佐藤家は姉の嫁ぎ先だから,迷惑な話だ。

土方歳三といえば,面のうしろで,真紅の紐を長くたらし,朱塗りの皮胴をつけていた。
オシャレな防具だ。しかも,道場によくある,型にはまった竹刀剣法ではない。
もともと天然理心流は実践的な総合格闘技である。土方の剣法のセンスはここで磨かれたのだ。

●剣の達人●
土方歳三は,剣の天才であり,達人だ。ところがまわりの人はそれほど認めていない。
剣というと,沖田総司を1番とする。または,他流ではあるが,永倉新八だ。
試衛館では,師範代はあくまで沖田である。
じつは土方は,
免許皆伝を取っていない。
そんなものは,いらないのだった。免許皆伝は10年はかかる。
沖田は若くして,免許皆伝を受けている。
顔は一流。度胸は超一流。
(新撰組好きで)100人中70人は知ってるであろう、近藤勇という男は拳を口の中に出し入れできたという話は
有名である。顔だけでも、かなり迫力のある顔なのだろう。いわゆる、「おしだし」の強さがあったのだ。
さて、本当に剣の実力があったのだろうか?実はというと、
自分が免許を与えた、門弟(新撰組のメンバー)の方が強かったといわれる。
しかし、なんといっても 
16歳で天然理心流に入門して、28歳で免許をうけて、
4代目の当主となった
。スピード出世である。
誰も近藤勇の前に出ると、手足がすくんでしまう。
剣は、「
下晴眼の構え」である。体を少し反り気味にして、腹をつきだす。剣が相手の篭手に入ると、
竹刀をおとしたという。
「天然理心流」は総合格闘技だった。ほかの道場の「竹刀の剣術」とは違う。

近藤勇が他流試合をしたときのことだった。
相手は、講武所の名人・本梅縫之助だ。本梅の竹刀は、勇の竹刀をからめて、宙に
飛ばしてしまった。すると勇は後ろに2、3歩下がり、すぐに柔術の構えをとった。
ほかの流派なら「参った!」というところだろう。
勇の迫力に、本梅が一瞬 ひるんだ。「お手並み拝見した」と本梅は一例した。

あとで、本梅は「あの近藤なるものの姿勢を見たか。最後まで、勝負を諦めない態度は
見習うべきだ。」といったという。(『知れば知るほど』より)

役者のようないい男,天下国家のため結婚を取りやめる
いまでも,写真が残る。(上) 近藤は豪胆だが,土方はキリッとしていていい男だ。
身長は5尺5寸(165cm)だが 当時とすればスラッとしている。
試衛館時代には,
色白で,猫背で,役者のようだといわれていた。
17歳の頃にもご存知のとおり女性と関係している。かなりモテたのだろう。
●恋文の山●
京都から,土方歳三は試衛館の門弟に,小包を送ったことがある。
そこには,「いいものをあげるよ」と書いてある。門弟は心をときめかせて,小包を開けると
中には
京都や大阪の芸者や遊女から送ってきた,恋文やプレゼントが入っていたのだ。
祇園に数人,北野,新地にかなりの数の女性がいたという。名前もわかっている者もいる。
●天下のため,婚約を破棄する●
上洛前の土方の許婚(いいなずけ)は「
お琴」という。三味線ひきの娘だ。
内藤新宿に近い場所に住んでいた。評判の美人で,
長唄の腕も良い。土方の兄は,お琴の店から三味線をよく買っていた。

家族ぐるみの付き合いで,結婚というところまでいく。
しかし土方は乗り気じゃない。実は,もう試衛館では天下国家の話が盛り上がっていたのだ。
自分ばかり結婚している場合じゃないと,土方はお琴に別れを告げた。

お琴も土方の気持ちが分かり,ついに結婚の日は来なかったのだ。
上洛のあと,一度故郷に帰るときがあり,そのとき会っている。
その後は二度と会うことはなかった。


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