近藤勇
大変なガキ・勝五郎 |
天保5(1834)年、武州多摩郡上石原村、農民●宮川久次郎の 3男として生まれる。名前を宮川勝五郎という。 宮川の頃は大変なガキだったという話がある。 松の木を引っこ抜いたり 犬を集めて噛み合せて喧嘩をさせたり、 馬の尾に火をつけたり、勇が15歳の頃 強盗を退治する話も有名である。 他にも線香の明かりで読書をしていたとか。 その読書は三国志だという説も残っている。 |
近藤勇 |
勝五郎少年は、泥棒を撃退したかと思ったら、 読書やそろばんが好きな面もある。 この末恐ろしい勝五郎の素質を、父親の久次郎は見抜く。久次郎は自宅に道場を作り、 『天然理心流』の近藤周助(周斎)に出稽古を頼んだ。 ついに、16歳で入門が許されるのだった。 という事で勝五郎少年は、後に周助の養子になり、 四代目を継いでいる。 |
勇の愛刀・虎徹 |
近藤勇がずっと使い続けていた愛刀・虎徹は 戦国時代の刀匠である。 気になる入手法は、 ○「買った」 ○「親戚に送られた」という説がある。 この虎徹は、あの有名な池田屋事件でも 勇が使っていたのだが、「今宵の虎徹は血に飢えている」 という名言を残した。ボロボロになるまで 使ったという話が残っている。 ボロボロになって、平気なのか?と思いきや 勇は父への文(手紙)で「無事に御座候」と 書き残していた。その後も、鞘にスルリと入ったという。 |
●おまけ● 勇は二刀流だったの? と、疑問に思われているところがある。 勇はかなり長い脇差をさしていた。 太刀も長いものが好きだったが、脇差も 2尺3寸5分と、長いものを つかっている。これは、実践で太刀が折れたとき、脇差で十分に 戦えるようにするためだという。 勇は、「荒木又右衛門が2尺8寸5分の刀を使っていた。が、伊賀の 仇討ちで、その刀が折れてしまう。しかし、脇差が2尺5分あったため、 刀同様の働きをした。脇差も大きいものにしたい。」という。(『遺聞』) 二刀流でなく、スペアとして考えていたのだ。 |
サイズ/大刀103cm、小刀70cm●重量/大刀1100g、小刀650g●素材/刃:特殊合金製、柄:鮫肌調樹脂、合繊巻き、 鍔:合金製、鞘:天然木、黒石目仕上げ、刀架け/天然木・黒漆調仕上げ組立て式(レプリカ参考) |
道場の若先生・勇 |
勇の指導方法はどうであったか? 近藤がいない時に、沖田総司が代わりに教えることがあった。 沖田は外見は優しそうな人間だが、実は教え方は荒っぽかったという。 それに比べると、勇の指導は優しかった。しかも丁寧で、懇切だったらしい。 そのため、多くの人が剣の達人となっている。 顔が怖いゆえに京都にいた頃は勤皇側から「味方になれ」と誘われることもあった。 もちろん断ったが、つまりは敵側から顔でスカウトされるほど怖い顔をしていたのだろう。 だが、道場ではいつもニコニコしていた。「道場破り」で荒っぽい人間がきても、 客として歓迎して、親切にもてなした。 そして神道無念流の永倉新八、矢理の宝蔵院流の原田左之助なども 勇の人柄に惚れ、食客(居候)となって道場で ゴロゴロしていた。 北辰一刀流の山南敬介は近藤勇に竹刀を飛ばされ、弟子になっている。(『始末記』) |
顔は一流。度胸は超一流。 |
(新撰組好きで)100人中70人は知ってるであろう、近藤勇という男は拳を口の中に出し入れできたという話は 有名である。顔だけでも、かなり迫力のある顔なのだろう。いわゆる、「おしだし」の強さがあったのだ。 |
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さて、本当に剣の実力があったのだろうか?実はというと、 自分が免許を与えた、門弟(新撰組のメンバー)の方が強かったといわれる。 しかし、なんといっても 16歳で天然理心流に入門して、28歳で免許をうけて、 4代目の当主となった。スピード出世である。 誰も近藤勇の前に出ると、手足がすくんでしまう。 剣は、「下晴眼の構え」である。体を少し反り気味にして、腹をつきだす。剣が相手の篭手に入ると、 竹刀をおとしたという。 |
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「天然理心流」は総合格闘技だった。ほかの道場の「竹刀の剣術」とは違う。 近藤勇が他流試合をしたときのことだった。 相手は、講武所の名人・本梅縫之助だ。本梅の竹刀は、勇の竹刀をからめて、宙に 飛ばしてしまった。すると勇は後ろに2、3歩下がり、すぐに柔術の構えをとった。 ほかの流派なら「参った!」というところだろう。 勇の迫力に、本梅が一瞬 ひるんだ。「お手並み拝見した」と本梅は一例した。 あとで、本梅は「あの近藤なるものの姿勢を見たか。最後まで、勝負を諦めない態度は 見習うべきだ。」といったという。(『知れば知るほど』より) |
勇の愛人は嫁も合わせて7人 |
新撰組・近藤勇というと、やっぱり豪胆なイメージが少しある。 実はそのとおり、妾・嫁を全員合わせると7人も愛人がいたのだ。 だが勇がそれだけ、人がよかったという風にもとれないんでもない。 |
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近藤勇が若先生になったときのことである。八王子の遊郭で 豪遊して、居続けをしたことがあった。一月以上遊びつづける。 すると、勇は「亭主を呼べ!」と叫んだ。郭の若い衆は、勇がいかにも豪胆で 迫力があるので、 なにかインネンをつけられると思っている。しかし、勇は 「実は金を持っていない。この店で働かせてくれ」といったのだ。 この郭、千代住楼に、近藤は一生恩義を感じ、ことあるごとに大事にしたのである。 |
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近藤勇の結婚は、27歳、万延元(1860)年3月29日のことだ。 見合いは何度しても 勇は結婚しなかった。だがある日、 そんな勇が結婚する。いままでは断り続けたが、 なんと今回は結婚を承諾してしまったのだ。 仲人は不審がって、勇に訳をきくと、勇は 「美人は貞淑でないのが、常である。そこへいくと、 器量が悪い女性は、真心をもって男性に仕え、 ひかえめなものだ。 ことさら器量の悪い女性を妻にもつのは、 そんな美徳のある女性を得たいからだ。」と説明した。 そうして、同年3月に勇は「つね」という女性を妻にもらう。 「つね」は 一橋家の家臣で、 松井八十五郎(まついやそごろう)の長女で、24である。 一橋家の右筆の家柄で、頭もよく、2年ののち「たま」を出産する。 写真でみると、器量は悪くなく、美人である。この話は、 本人がそう語っていただけであろう。 だが勇が京に上洛する間からはずっと つねは江戸に残され、 たまと一緒に待っていた。 |
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上でいったように、ツネ以外にも6人の女性と関係があった。 @江戸でまず、ツネと結婚した。隊士達によると、第1印象は慎ましく誠実そうだったらしい。 Aこれも江戸で澤子という女性。八王子の商人鳥山某の娘。絶世の美女と評判だったらしい。 B京にて、三本木の、駒野という女性。この女性も子を出産しているという。 C京にて、あの有名な深雪太夫である。織屋という遊郭で太夫というランクをとっていて、 美人で背がすらりと高く、病死した。深雪太夫の妹と勇が関係をもったことを死ぬ直前に知り、縁を切ってもらうため2百両勇にもらっている。 D七軒という遊郭で、芸妓の植野という女性。あまり美人ではなかったという話が残っている。 E深雪太夫の妹、お考。深雪太夫の妹ゆえに、やはりかなりの美人だったという。その上「お勇」という子を出産している。 補足:他にも茶屋で女性と関係しているという。 |
新撰組局長 近藤勇の最期 |
新撰組で、池田屋事件の近くなどで京で活動していた時の話は面白いものだが、 どうも私は近藤勇の最期周辺は好きになれない。とても、京で活躍していた時と違いすぎるからである。 だがやはり目をつぶることはできないので、近藤勇の最期にかかる。 |
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慶応4年(1868)年 1月3日、旧幕府軍が京に進撃、新政府軍(薩摩軍)と激突する。 それが鳥羽・伏見の戦いである。このとき、新撰組は伏見で薩摩軍と戦闘をまじえたが、 やがて敗退、数日後 前将軍・慶喜のよる大阪城へ撤収した。このとき、 新撰組の指揮権は土方歳三が握っていた。というのは、 勇が墨染(すみぞめ)の地で御陵衛士(新撰組分派)に狙撃され、 右肩の骨を砕かれ 大阪城内で療養を余儀なくされてたからだ。 大阪城の勇は、痛みをこらえて 幕閣会議に出席、議場で徹底抗戦を説いたが、 慶喜が敵前逃亡して江戸へ戻ってしまったため、仕方なく新撰組も江戸へ戻ることになったのである。 |
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阿部十郎の語る近藤勇狙撃事件 島田魁と横倉甚五郎が刀で、勇の乗った馬の尻を叩き、近藤を逃がす。 近藤勇は、肩を撃たれるも、馬首にしがみつき 伏見奉行所に逃げ切る。 勇達と一緒にいた井上新左工門と馬丁の芳介が殺害される。 この事件の始まりは、富山弥兵衛が待ちきれず銃を撃って始まった。 敵の元伊藤甲子太郎派、御陵衛士らは一気に突撃してきた。 篠原泰之進と加納鷲雄は槍を持ち、篠崎信八郎と内海次郎は刀を持ち、 富山弥兵衛と阿部十郎は銃を持ちそれぞれ攻撃をする。 だが加納はやりを捨てて逃げ、篠崎はあとわずかで馬上の勇の足を切るところまで迫るが、 逃げられる。 |
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100万石のお墨付き 勝海舟ら幕閣は、官軍への江戸城無血開城(つまりは和解のような作戦)を考えていた。 そのため、主戦(戦う)派の新撰組の存在は目障りだった。そこで勝は勇を招き、 若年寄格に抜躍をしたうえで「官軍に接収される前に、甲府城を確保してほしい。成功したら 甲府100万石を与える」と約束する。ていよく江戸城外へ追い払おうとしたのだ。 天下に野望を持っていた勇はこれを快諾、新撰組(甲陽鎮撫隊)を率いて 甲府に向かうも、すでに城は官軍の手に落ちており、10倍の敵に攻撃されて あえなく敗退する。そのあと勇は新撰組を再結集する。 そのあと、2つの説の場所で薩摩の官軍に包囲されるとある。 一つは流れ山で、 二つは下総の五平新田という場所である。 ともかくも、どちらかで薩摩藩の有馬藤太という侍が3百の兵を連れてきたという。 有馬が近藤に何者かとたずねると、勇は別人を装って 「大久保大和と申す」と名乗った。大久保大和とは、勇が晩年に使っていた偽名であるそうだ。 近藤はとても落ち着いた物腰で有馬に同行してしまう。 |
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取調べの地獄が始まったのは、4月8日からのことであった。 しばらくは「大久保大和」と名乗りつづけるが、ある日運命はきてしまった。 勇を知る者が「お久しぶりです、近藤先生」と出てきたとのことである。 そしてついにバレてしまったというが、その勇を知る者についても2説ある。 加藤道之助 か 加納鷲尾である。 加納鷲尾といえば、御陵衛士残党の1人であるが、その後 改名して「加納道之助」になっているという説もある。つまりは、 加藤道之助と加納道之助は同じ人物なのではないか・・・と私は考えるが、よくわからないv(汗 それから、近藤勇という事が確定し、死刑と判断される。 勇にも、土方にも新撰組隊士もそうであろう、切腹が一番いいのだが 侍らしい切腹さえも許されず、斬首と決められる。 その話を聞いた途端に土方歳三は勝海舟に「近藤さんを助けてくれ」と頼みに行くが、 それも哀れに払いのけられ、ついに慶応4年4月25日に勇の刑の日がきてしまうのであった。 問屋場では「今日は旗本が斬られる」という噂が広がり、昼ごろに山籠が到着する。 中から出てくる男は、顎ひげを生やしてはいるが、元気そうだ。 黒の紋付を着て、縄目がかけられているので 囚人としては妙な格好であった。 刑場にはムシロがひいてあり、穴がムシロの前に掘られてある。 勇はムシロに座ると、大急ぎで月代とひげを剃らせ、 「なかなかやっかいになった」と声をかけた。そこで命は尽きた。享年35歳。 勇の最期は十分として扱われなかった。切腹ではなく斬首な上に 晒し首という酷い有様だった。首は京都に送られ、三条河原にさらされる。 そのあと、大阪千日前にも さらされた。 近藤勇の晒し首は評判だったらしく、見物人が大勢やってきたという。 |
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墓碑は3つあり、体の方は刑場に埋められていたのだが 身内のものが「かわいそうだ」と、番人に金をやって掘り返し、棺おけに入れて 上石原の竜源寺に葬っている。これは「首なし死体」だ。 もうひとつの墓は、板場の刑場に石碑がある。 これは、近藤勇が処刑になったとき 死体が埋められた場所である。さらに、もうひとつは会津にあるが これは死体とは関係ない。近藤勇と土方歳三の墓というが、 石碑であるという。 |
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