三溪園日帰りレポート
2005/3/6(日)に管理人と管理人母2人で
三溪園」に行って参りました。
まだ梅の時期は早かったということが
かなり実感できました(汗)
横浜in根岸in三溪園という
ルートでつきました。
根岸の駅につき、1分でバス停につくほどです
バス停は15分に1度しか来ないので
1回でも逃したらかなり苦労ものです(笑)
そして、20分ほどで三溪園につきます。
ついた先は、どう反応すればいいのか
分からないような風景がありますが
バスをおり、案内らしきおばさんに
聞くとすぐわかります。そして
池の上の橋を渡って入り口です。
その例の池を通るわけですが、その際橋を渡ります。
そして、その瞬間。鴨らしきのが
たくさんいるのですが、異様な光景に少し驚き。
全員首がありません。いや、死んでるとかじゃなくて
寒いのか眠いのかよく分かりませんが
とにかくびっくりです。この光景を見るなら
冬がお勧めです。この鴨を見たうえで
さっそく入ります。


合掌造り
入り口から10分ほどでつく、合掌造り。
合掌造りは、岐阜の白川郷でよく造られていて
それをココにうつしたらしいです。
合掌造りとは、手の指先と指先をあわせるようにして
▲をつくるので、「合掌造り」というのだそうです。
そして何故こう、急なのかというと
それは雪が積もらないように、だそうです。
全体的に暖かい家だといえます。
では中に入っていきます。
ココは、1階でもかなり涼しげ(かなり寒い)だった部屋です。
なんだか「古代」ってオーラ出てますよね。
台所は2つあり、一つは普通に釜などが
あったのですがもう1部屋にはボートみたいな
船みたいな(横1m)のがどーんとあり、
そこには水をたくわえていたらしいです。

これは例の急な階段です。もう、目が360度回転してしまいそうなほど
急です。どうして急なのかはあとで詳しく説明いたしますが
私も涙ぼろぼろ出しながら登り降りしました。
(極度の高所恐怖症です;)
40人もここに住んでいたという家があるのですから、
1人や2人ココで落ちてもおかしくないです。
足がガクガク震えながらも2階を進むと、
当時蚕(カイコ)の飼育をしていた跡がありました。
当時、蚕を育て、蚕が繭(マユ)になると
その繭の糸を少しづつほどいていき、その糸を売ると高く
売れたそうです。なので当時の合掌造りのお家の方々
ほとんどが、2階では蚕の飼育をしていたそうです。
この家にも蚕の糸をとり、それを織る機械らしきものも
いくつか置いてありました。薄暗い中で展示されていたので
少し薄気味悪いようにも思えました。
これが2階をパッと見た感じです。
木が古く、小さい光に照らされて
床が薄暗く光っているところが味を出していましたv
何より、床がスベスベなので一歩間違えたら
大変なんじゃあないか、と何度も考えました(涙

大体、2階の広さはこの画像で映っている範囲の
約4、5倍はあったかと思います。
とにかく広くて、これじゃあ寒いよなあと感じました。
当時の人もかなり厳しかったと思います。
そして階段を降り、外に出ると
「満開だあ」とは言えないけどたくさん咲いていました、梅。
梅も桜も見分けがついたりつかなかったり難しいものですが
とても綺麗でした。香りは微かにしていました。v
では、合掌造りの歴史について少しながらも
ご説明させていただきます。













合掌造りは、とても深い歴史がたくさん詰まっております。
まずまず合掌造りは養蚕の影響を受ける頃なので、江戸時代中期後です。

ほとんどの合掌造りには、とても厳しく悲しい話があります。
合掌造りは、急な屋根だというのが第一印象ですね。
何故急なのかというと、もちろん雪が積もらず、すぐサラサラッと落ちていくように。
という事からして、雪がしょっちゅう降っていたと推測できます。
そしてその雪がしょっちゅう積もるということは、寒い所に住んでいたと考えられます。

まず家族が合掌造りに住んでいたとします。
当時は蚕づくり、農作物を作り 食物等を食べられていたらしいですね。
それで、父と母は寒い一階(雪で積もっていたから寒いのですね)に住み、
長男だけが暖かい3階に住み、農作物を作り、暖かい生活をしていましたが
他の次男や三男等、長男以外の家族は全員1階に住んで寒々しくすんでいました。
そして何より悲しいのが、当時は男性だけが頼りになるということで
女の子が生まれたとしても、1階に住むか、
1番酷いのは、口減らしとして山に捨てにいったり殺したりしていたという話です。

当時はやはり厳しい生活にあったのですね。
さて、ご存知でありましたでしょうか。こけしのお話。
「こけし」とは皆さんも見たり聞いたりの1度はあるはず。

まず何故こけしというのか・・・?
それは、上にあるように、口減らしとして山に
捨ててきたり、殺したりして子供を消す。
そしてその子供の形見として人形を作り、
それを捨てた我が子の代わりとして大切にするのです。
なので、「子消し」です。

だから合掌造りでは子消しがいくつか
あってもおかしくはないのかもしれません。




口減らし=当時の食料は少なく、ご飯1粒でも惜しかったので
1人が食べる量だけでも惜しいゆえに
その1人の口を減らす。つまり消すということでした。
悲しい歴史で終わらせてしまったようですが、合掌造りが古代的で美しい事にかわりはありません。
これは、色々な昔の人々の知恵によって造りだされたものです。
なので、是非皆さんも岐阜の白川郷に行くか 東京のさんけいえんに行くか
1度は生でご拝見なされるのをお勧めいたしますv

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